東洋医学の現場から

番外編・愛しの大阪〜レトロなビルと医学の都

番外編・愛しの大阪〜レトロなビルと医学の都

旅行好きの身に学会出張は楽しみの一つです。平成最後の東洋医学会総会は大阪でした。明治期に東京に移住した祖先を持つ新潟都民の自分にとって大阪は異国でありワンダーランドですが、東洋医学、ひいては現代西洋医学の発展に欠かせぬ地でもあります。現代の高速道路は昔では水路です。古来、京都と淀川で結ばれ、瀬戸内海を通して日本海や東アジアに開けた大阪で、豊臣秀吉が全国レベルでの物流と売買(今日的な意義での経済活動)をスタートさせ、徳川家康もこれを継承、淀屋常安などの豪商が輩出し大阪が天下の台所となったのは周知の通りです。ここ大阪の道修谷(どうしゅだに)に1700年代、北山友松子(きたやまゆうしょうし)という名医が居を構えます。おりしも中国では明が崩壊、清の時代となり、多くの知識人が日本に亡命しますが、彼は明からの亡命者、馬栄宇(ば–えいう)と長崎丸山の遊女の間に生まれたハーフで中国語が堪能でした。「万病回春」の著者である龔廷賢(きょうていけん)の弟子の戴曼公(たいまんこう)に師事した彼は紀州侯や尾張侯の治療で名を上げ、貧しい人は無料で治療するばかりでなく必要なものまで施し、名医として名を馳せました。薬剤の調合に秀でた彼の周囲には薬種商が競って店を構え、薬の町・道修町(どしょうまち)が形成されました。今日でも、塩野義製薬、武田薬品工業、田辺三菱製薬など日本を代表する製薬会社がこの地に本社を構えています。ビルの谷間には、日本医薬の祖神・少彦名命(すくなひこなのみこと)と中国医薬の祖神・神農炎帝(しんのうえんてい)をお祭りした少彦名神社(神農さん)(図1①、写真1)があり、医薬関係者として私も参拝して来ました。

ほど近い北浜には、緒方洪庵が幕末に開設した蘭学塾・適塾が解体修理を経て保存され内部を見学できます(図1②、写真2・3)。大阪町家建築の遺構としても貴重な邸内には静謐な気が漂い、ここから輩出された人材は綺羅星の如く、大村益次郎、高峰譲吉、長与専斎、橋本左内、福沢諭吉、手塚良仙(手塚治虫の曽祖父)と枚挙に暇がありません。幕末に流行したコレラの治療や種痘所の開設で有名な緒方洪庵ですが、彼の薬箱には多くの漢方薬も含まれていたことが記録に残っています。彼の偉業は当時の大阪にあってこそなされたものと言えるでしょう。

中之島から道修町に歩いて行くと、超高層タワーの谷間に、阪神間モダニズムを象徴するレトロな個人所有のビル(図1③〜⑦、写真4)や、明治時代に使われていた社屋(図1⑧、写真5)が宝石の様に点在しています。大阪に行かれたら、ぜひ訪ねてみて下さい。

大阪道洲町付近の地図

適塾外観・中庭

新井ビル・小西儀助商店写真

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